鶴屋開店休業回転ベッド

あたしの創作世界の基盤。だけどとてつもなくフレキシブルでヨレヨレにブレてる。キャラが勝手に動くんだ♪

未婚の妊婦

浅海はつわりも軽く、美月が車で送迎をする
こともあって本校での授業を続けていた。

「え?妊娠?村雨先生離婚したばっかだよね」
前々からソリの合わない主任だとは思って
いたが、やっぱりダメだなあと思う。
下世話な野次馬オーラを全開にして
鼻の穴を膨らませている。
雅也と離婚したときにも同じようにして
根掘り葉掘りきいてきた。
適当にあしらうが、気分が落ちるのはどうにも
出来なくて誰にも言えず一人苛立ちを抱えた。
「つわりは軽いので当面は産休を頂くまで
普通に勤務するつもりですから。」
「へえ。産むんだ。」
セクハラとかパワハラとか言う以前に
人間としてどうかと思った。
こんな無神経で女性を軽視している中年男性が
女子にも保健体育を教えているのだから
浅海は実害が起きないことを常日頃祈っている。
バカな奴になんのいわれもないのに
傷つけられる。教師と生徒という圧倒的な
上下関係にあって抗える子どもはそう多くはない。
「これから色々ご迷惑をかけますが、よろしく
お願いします。」
主任はふんと鼻で笑うと話を終わらせた。

「相変わらずだね、柳先生は。あんな人が
学年主任なんだから困っちゃうよな。」
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同僚の体育教師、吉岡達郎が浅海を気遣う。
吉岡は浅海の一年先輩だが、10年前まで本校の
中等部に勤めていたのだ。附属に赴任した頃は
何かと浅海がフォローしていたのもあり
困っていると公私こだわらずに助けてくれる。
「もう、いやんなっちゃいますよ。
産むんだ?だって。もう慣れましたけどね。」
吉岡は笑いながらどぎついことを言う。
「柳先生は、浅海先生を摘まみ食い
出来ると思ってたみたいだけど?」
「はあ?バカ言わないで!!」
浅海は全身に鳥肌が立った。
「強姦するような勇気はないけど、浅海先生を
物欲しそうに見てるのは確かだよ。」
当然柳先生は妻子ある身なのだが。
そんなことは関係なく、生理的に受け付けない
と思う浅海だった。



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午後に本校に行くと、昼休みに生徒とサッカー
をしている賞平を見かけた。
「賞平くーん!」
浅海が声をかけると賞平が何故か助かった!と
叫んだ。何だろうと見ていると職員玄関から
小走りに走ってくる美月が。
「美月!早く代われ!身体が持たん!」
よく見ると賞平が一緒にサッカーをしている
生徒たちは中学生だ。
どうやら美月の代わりに昼休みサッカーに
つき合っていたのだろう。
かなりガチなタックルを何人もの生徒から
仕掛けられている。賞平はガッチリした体格
なので倒されることはないが、繰り返し攻め
られてけっこうグロッキーだ。
「ほら!お前ら!美月帰ってきたぞ!」
「ちぇー。坂元先生とは良い勝負で面白い
のになあ!」
子どもたちの言う通り、美月に代わったとたん
タックルを決められる子は誰もいなくなった。

「お疲れさま。」
浅海は持っていたタオルを賞平に差し出す。
「浅海。サンキュー。」
息が上がっているものの肩を動かすでもなく
しばらくすると普通の表情に戻った賞平。
「賞平くんもまだまだ若いじゃない。」
「もう52だぞ。勘弁してもらいたいよ。」
賞平は一頻り顔や首筋の汗を拭うとタオルを
浅海に返した。
「おめでとう。」
「え?」
「おめでた、だろう?美月に聞いたよ。」
「ん。ありがとう。」
浅海は美月がどこまで話しているのか
自分達が義理の親子になることを学校内で
どこまで開示するつもりなのかわからず
とりあえずありがとうとしか言えなかった。
「蒲生とは、出来なかったの?作らなかった?」
「欲しかったけど出来なかったの。中学生で
妊娠したかもなんて散々騒がせておいて。
欲しい時にはさっぱりだったのよ。」
「でも、良かったじゃないか。相手のことは
知らないけど、結婚するんだろ?」
「美月先生に聞いたの?」
「まあな。」
賞平は、浅海が倒れた日から
ずっと気にかけていたのだ。
美月に話を振ると、のらりくらりと
かわされるのである。
美月は何か知っていると賞平は確信した。
それからというもの、賞平は事あるごとに
美月を問い詰めた。
そしてついこの間、やっと美月が口を割った。
浅海が妊娠したこと、相手も妊娠を
喜んでいて結婚の意志もあることを教えて
くれたのであった。
「心配してくれたの?」
「当たり前だろ。」
賞平は照れ臭そうにしながらそっぽを向く。
「相手は、どんな奴なんだ?どこで知り合った?」
浅海は笑う。
「知り合ったのは七年前よ。片想いがやっと
実ったの。」
賞平はあの会話を思い出す。
「……そうか。幸せになれよな。」
「ありがとう。」
「て、ことは。だいぶ年下なのか?」
「ん。一回りとちょっと。」
「え!」
賞平は絶句した。
「あたし、着替えるから。またね。」
賞平が口をパクパクさせている間に
浅海は更衣室に入っていった。

六時間目が終わると、いつものように
報告書を書き、主任に提出する。
「あら?山本先生は。」
学年の教師が詰めるミーティング室には
いつもいるはずの山本先生がいない。
「村雨さん。山本先生なら部活行っちゃったから
預かるよ。お疲れさん!」
美月はいつも理科準備室にいるのだが
珍しくミーティング室で仕事をしていた。
「中間の結果をまとめててね。あっちに持って
行けないから今日はこっちに詰めてるんだ。」
「美月先生。賞平くんがおめでとうって
言ってくれましたよ。」
「ん。もうあいつ心配しててさ。黙ってるわけに
いかなくて、ちょっとしゃべった。」
「渉さんのことは、伏せときます?」
「入籍したら、言おうと思うんだけど。ど?」
「私もけさ、妊娠の報告まではしたんです。
柳さんには産むんだ?なんていわれて。」
「あいつ相変わらずだね。」
「美月先生、知ってるんですか?」
「あたしが高1の時までこっちで体育やってた
からさ。嫌味なやつだったよ。」
「なんか、あの人私のこと狙ってたみたいで。
気持ち悪いでしょ。」
「え?あいつ奥さんも子どももいるけど
ホモなんだよ?」
「えっ!?」
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浅海は本当に驚いた。
今朝の吉岡の顔が思い出された。
吉岡先生の見立てが外れたってこと?
それとも。
「渉のことは隠すことじゃないけど、あたしと
親子になるってのはやりずらいかな。
名字だけでピンと来るまでの人はいないけど
訊かれない限りは黙ってた方がいいかも。」
美月はウインクする。
「じゃあ、私そろそろ失礼しますね。」
「気をつけてね。」

浅海が玄関から出ると駐車場の方へ歩いていく
賞平が見えた。
「賞平くん!もう帰るの?」
「おう。今日は早上がりだ。」
「あ!」
「どうした?」
「コート忘れてきちゃった!」
「あはは。ドジだね。日中は暖かいもんな。」
浅海は地団駄を踏まんばかりに悔しがっている。
「ああ!なんてバカなのあたし!」
「更衣室までの往復がそんなに辛いか?」
賞平が少し心配そうにしているので
浅海は居心地悪そうにモジモジしながら
白状した。
「直帰出来るのに、第二中のあたしのロッカー
に忘れてきちゃったのよ。」

「いいの?今日は何か用事があるんじゃない
?」
結局賞平が車で浅海を送ってくれることに
なった。

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「お前んちどっちだ?」
「本町のスクランブル交差点あるでしょ。
右に入って二本目の細い道入ったとこなの。」
「へえ。通り道だから乗っけてってやるよ。
早くコート取っておいで。」
「本当に?助かるなあ、ありがと。」
賞平は来客用の駐車場に車を入れると
浅海をおろした。
「じゃ、ちょっと待っててね。」
「急がなくていいからな。」
浅海は可愛らしい小さめのお尻を綺麗に振り
ながら、背筋を見事に伸ばして歩いていく。
さすが体育教師だなと、後ろ姿に見とれた。
若いつばめを捕まえて、中々やり手だよ。

浅海は更衣室のロッカーからコートを取り出し
玄関に取って返す。
「あれ?浅海先生。直帰じゃなかったんですか。」
吉岡だ。浅海は何故だか胸騒ぎを覚える。
「コート、忘れてしまって。」
「そうだ。浅海先生に話しておかないと
いけないことがあったんですよ。」
吉岡は浅海の腕をつかんで強く引っ張る。
「やめてください!話ならここで」
「あんまり人には聞かれたくないんだよ。」
浅海は吉岡に引っ張られて階段下の掃除用具
倉庫に入れられた。
「何のつもりなのよ!やめて!」
倉庫は大人が二人、身体を寄せあってギリギリ
収まる大きさだ。いつもより予備のモップや
デッキブラシの数が少なくなっているのに
気づいた浅海が左右を見回す。
「ね。ちょうど良いスペースだろ?中のものは
俺が整理しておいたからね。」
「やめてっ!」
「ここには明日の朝自習の時間にでもご招待
しようと思ってたのに。放課後帰ってきて
くれるなんてね。」

「急がなくて良いとは言ったけど、遅いよな。」
その頃、賞平は待ちきれず浅海が入っていった
職員用の玄関を覗いていた。
「あれ?賞平くん!」
そこには一昨年まで本校で事務をしていた
優子がいた。
「優子じゃん!元気だった?」
「賞平くんがこっちくんの珍しいね!」
「いやさ、浅海を送ってくんで待ってんだけど
コート取ってくるってなかなか戻ってこないんだよな。また、具合悪くなってないかと思って
様子見に来たんだ。」
「あー。浅海先生ね。確かに更衣室に行った。
戻ってきてないなあ。」
賞平は迷わずスリッパを引っ張り出すと中に入る。
「更衣室ってどっち?」
「こっち!ついてきて!」
賞平は道案内を得て急ぐ。
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優子が女子更衣室も覗いてくれた。
「いないよ!」
内線で職員室や準備室、詰めそうなところも
当たってくれたがいずれも空振り。
「浅海ーッ!!」
賞平が大声で叫んだその時だ。
ーガシャンッ!!
大きな音だ。
「賞平くん!こっち!多分階段下の倉庫!」
賞平と優子が駆けつけると、扉が半開きに
なっている。蝶番が一つ弾け飛んでいる。
ーバキンッ!
また大きな音と共に今度は扉が完全に吹っ飛ぶ。
ブラウスのボタンが三つほど千切られ
左肩が露になった浅海が、吉岡の胸ぐらを
締め上げている。
「女舐めんな!コラアッ!」
仕上げに金的を食らわす。
「うがあっ!」
「浅海!おい!もう大丈夫だから!」
「きゃー!吉岡先生!顔色が変ですよこれ!」
浅海が容赦なく襟を締め上げているので
真っ赤な顔に泡を吹き始めている。
浅海は忌々しそうに舌打ちをして
放り出すように吉岡の締めを外した。
吉岡はその場に倒れこんで気を失った。
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「浅海!お前、身体は平気か?お腹はっ?!」
「大丈夫。肌には触れさせなかったし
ボタン引きちぎられただけ。もうカッとして。」
賞平が廊下に落ちていた浅海のコートを着せて
やると、浅海は急に正気に帰ったように
賞平にすがる。
「かなり締め上げちゃったけど、脳に障害が
残ったりしないよね?どうしよう、訴訟問題に
なったりしたら。」
「落ち着け、浅海。平気だよ。
心肺停止したわけじゃないし。」
「警察、呼びます?」
優子が恐る恐る覗きこんでいる。


とんだ騒ぎになった。
美月が連絡を受けて飛んできた。
「村雨さん!」
「美月先生!」
浅海は美月に抱きついて泣き出した。
賞平は自分に対する態度と違うことに違和感を
覚えたものの黙っておくことにした。
「あたしがぶん殴ってやる!」
「大丈夫です!あたしが襟締め上げて
落としましたから!」
「よしっ!さすがウチの嫁だっ!」
はじめ、賞平はさらりと聞き逃したのだが
抱き合う二人を二度見したのは賞平だけだった。

亮と浅海

「さあ、遠慮しないで入って。
今、主人も来るから。」
美月が渉に連れられて訪ねてきた浅海を
リビングに通す。

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「渉。安全運転したか?妊婦さん乗せるときは
気使ってやらないとね。」
美月が渉にどや顔で講釈をたれる。
「わかってるよ!」
鬱陶しそうに話を終わらせようとする渉。
浅海は隣で静かに微笑む。
亮と浅海は初めての顔合わせだ。
「いらっしゃい。渉がお世話になって。」
「はじめまして。村雨浅海といいます。」
亮は覚悟はしていたものの、少し動きが
止まるくらいには驚いた。
美瑛とはまったく違うタイプ。
華やかな外見ではないが、女が匂い立つ。
濃い色気を感じさせる。
眼差しが強い。芯が強いどころじゃない。
たとえ好きな男にも決して言いなりになる
ような女ではないだろう。
「はいはい、みんな座って。」
美月がお茶を持ってリビングに入ってきた。
「今日は焙じ茶にしたよ。妊婦さんいるからね。」
美月は場の雰囲気が悪くならないようにと
気を使っている。

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「この度は、ご家族の皆様にもご迷惑をおかけ
してしまう結果になってしまって。」
浅海は殊勝に頭を下げる。
「いやいや、うちの息子も身の程知らずで」
亮は浅海の胆の座り具合に押され気味だ。
「経済的なことは私にも多少蓄えがあります
どうか渉さんには勉学を優先させてあげて下さい。」
「心配しなくても大丈夫です。大学はきちんと
卒業させるつもりですから。」
「勝手なことばかりで、本当に申し訳ありません。」
「まあまあ。謝りに来させた訳じゃないんだし。
もっとリラックスしよ?ね、亮。」
美月が間に入り取りなす。
「そうそう。二人はどう知り合ったんですか?
俺にはあんまり話が聞こえてこないから。」
「そんなこといいじゃんか、親父。」
渉はやっぱり照れ臭いのか話を逸らそうとする。
「渉さんが中学生のころ。ケーキで餌付けして。」
「あっ!浅海?!」
「それからずっと、私の片想いでした。」
「やめろよー!!」

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完全に渉は手のひらで転がされている。
亮も美月も声をあげて笑った。
後日、両家での挨拶や新居のことを煮詰めて
入籍出来る3か月後までには落ち着けるように
話を進めることになった。
渉のケータイが鳴る。
「ごめん、ちょっと外すな。生徒さんからだ。」
家庭教師をしている生徒からの電話だった。
渉は素早く手帳を捲りながらリビングを出た。

「まさか、ご主人と離婚されたのは渉の…」
亮がどうしても黙っていられずに訊ねた。
「女って二枚舌なんですよ。夫ともそこそこ
上手くやってました。」
亮はジュディオングの魅せられてを思い出して
いた。なんだか納得する。
「私が前夫と別れたのは、子どもが出来なかった
からです。だから、この妊娠はとても嬉しくて。」
美月もこの話は初めて聞いた。
ひとりでも産むと言ったときの浅海の気持ちを
思うと、今更ながら胸が痛んだ。
「渉さんの子どもを産めるなんて幸せです。」
「まだまだガキだと思ってたけど。何て言うか。」
亮は自分の息子がもう父親になるという実感が
いまだにわいてこないのだ。
「でも、渉は昔から女にはモテてたよ。」
美月が横から意外なことを言う。
亮は目を点にした。
「あ、わかります。本人は全然うれしくない
だろうけど、クラスの女子の半分くらいは
胸をざわつかせてる感じで。」
「だから逆に女友達は中々出来ない。
今までは卓と一緒だったから普通に女友達が
いたけどね。大学ではいないんじゃない?」
美月は中学三年間を見ていて、渉がモテるのは
わかったが、彼の何が女の子を惹き付けるのか
今一つ掴みかねていた。
「村雨さんは渉のどこが好きになったの?」
美月は本当にわからなくて訊ねていた。
「美月先生はお母さんだから。分からないかも。
渉は何て言うか、男なんですよね。女の本質に
ダイレクトに来るんですよ。うふふ。」
亮も首を傾げる。
「あはは。父も母も息子の魅力には気づかない。」
美月も降参とばかり両手を上げて笑った。
「何の話してんだよ!」
渉が戻ってきて、だいたいのことを察して
話に割り込んできた。
「どうせ俺のことだろう!幼稚園のときに
親父とお袋がゲイカップルだと思い込んでた
話とかして笑ってたんじゃないのかよ?」
「え?」
今度は浅海の目が点になった。
「渉。お前……っ!」
美月が渉に飛び掛かる。
「え?違うのかよ!」
渉は美月をかわしながら逃げ回った。
「まあ、こいつにもそんなかわいい頃が
あったって話です。」
「亮さあ、それフォローのつもり?
あたし置き去りじゃない!」

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そして美月と亮の夫婦漫才で締め括りである。
浅海はもう疲れるほどに笑った。

「お義父さまは、渉さんとは違うタイプですね。」
帰り際、浅海が亮の側に来て話しかけた。
「確かにね。弟の卓は俺似だけど。あいつは違う。」
亮は少し浅海から目線を逸らせて答える。
「美月先生のハートを射止めたの、
わかる気がしました。」
浅海は渉がずっと思春期を拗らせていたのを
懐かしく思い出していた。
大好きな母が、自分とは全く違うタイプの父に
ベタぼれなのだ。きっと渉はどうにも出来ない
嫉妬が自分でも苦しくて仕方なかったのだ。
「もし美月先生が渉のクラスメートだったと
しても、渉にはハナもかけなかったでしょうね。
完全に渉の片想い。」
亮は想像して複雑な気持ちになる。

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「寂しい思いさせてたのかな。」
「大丈夫ですよ。」
渉はもう次のステージで堂々と振る舞っている。
浅海はそう頷いた。

なんも言えねぇ

「ええと。美月?」
夜、残業で帰りの遅くなった亮が
キッチンでお茶漬けをすすっている。
美月は梅干しと昆布の佃煮を小皿に出すと
おずおずと亮に差し出した。
「もう一回言ってもらっていいかな。」
「ん?だから。彼女が妊娠したの。」
亮は佃煮をひとつまみ口に入れて
またお茶漬けをすする。
「食べちゃってからゆっくり話しよう?亮。」
「お気遣いは無用。で?」
「で?って。」

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あー。怒ってるなあ。
美月はちょっとした修羅場になる
予感がしていた。
無理もない。幼馴染みの女の子を振って
17歳も年上の女に走ったあげく
妊娠させたのだ。
渉はまだ大学三年生だ。
生活力はないし、まだまだ親の脛をかじって
生きている立場なのだから。
父親の亮が怒るのは無理もない。
「彼女は、ひとりでも産むって言ってた。」
「そうか。渉は?」
「それは、あいつからあたしたちに話してくるの
待とうと思うんだ。多分すぐ来ると思うよ。」
亮が梅干しの種を小皿に戻す。ころんと
可愛い音をたてた。
「不始末だって自覚は持ってもらわないと。」
亮は案外と古風なところがある。
やっぱり昭和生まれの男だなと美月は思う。
出来ちゃった婚とかいう言葉が生まれた頃、
納得いかなそうに眉間にシワを寄せていた。
かといって一方的に反対するだけでもないのが
この男のカワイイところなのだけど。
「その彼女だって、ひとりで産むとかいうけど
そんな簡単なもんじゃないじゃないか。
俺たちだって色んな人に助けてもらったし
何が起こるかわからない。」
「そうだよね。」
「渉にもその彼女にもさ、
わかっといて貰いたいんだよ。子どもは
みんなで育てるものなんだって。」
「ん。そうだね。ほんとに。」
「だから、きちんと夫婦として自活して
人付き合いも出来るようになってから
子どもは作って欲しかったんだ。」
美月は亮に惚れ直しながらも、渉を目の前に
して余計な感情から激し過ぎぬようにと
諭すように話し掛ける。
「関係ないことを引き合いに出して叱りつける
のは逆効果だし、亮の本当に伝えたいことは
伝わらないよ。話すときは落ち着いてね。」
「わかってるよ。」
亮は笑いながら美月にキスした。
「なに、急に。」
「なんかあんまり心配そうにするから。
可愛くて、ついね。」






翌日の夜。帰宅した渉は美月に
話があるから父さんが帰ってきたら
聞いてほしいと言ってきた。
「浅海のこと。色々助けてくれてるみたいで
ありがとう。」
「礼には及ばないさ。あたしにだって
かわいい教え子なわけだしね。」
もう帰宅して夕食を済ませていた卓が
台所にやってきた。
「あ、渉おかえり。珈琲飲む人~?」
「はーい!飲む飲む♪」
「俺も貰うな。」
珈琲を淹れるのも飲むのも好きな卓が
豆から挽きはじめる。
香ばしい薫りが鼻孔をくすぐる。
「渉は今夜も彼女の手料理食べてきたの?」
「いや、今日はさっきまで働いてたんだよ。」
渉は家庭教師のバイトが楽しいらしく
積極的に仕事を入れてもらっている。
「じゃ、晩御飯は?」
「生徒さんちでケーキご馳走になっちゃった。
ちょうど珈琲貰うし、トーストでも食べるよ。」
「じゃ、ハムエッグでもしてやろうか。」
「頼むよ。」
美月は立ち上がり、台所で珈琲豆を挽く卓と
並ぶ。湯を沸かすやかんの横で、フライパンを
火にかけた。
「なんか最近渉と仲いいじゃん?」
卓が美月に小声で話しかけてきた。
「ようやく、反抗期が終わるのかな?」
美月も小声で答える。
「新しい彼女と上手く行ってるからかな。」
「美瑛との時とは少し違うね。確かに。」
美月はフライパンにハムを並べ、卵を割り入れる。
「トーストにバターは?」
「いらない。」
テーブルでひとり待つ渉の顔は穏やかで
やさしくて強い一人前の男の顔だった。
「ねぇ。あんたは鈴と、どうなの?」
美月は次男に話を振る。
「どうなの?って、何がさ?」
俺たちは仲良くやってるよ?と
屈託ない笑みを浮かべて応じた。
沸いたやかんの湯を少しづつ
落としながら珈琲を淹れる卓。

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「あたしは珈琲淹れるの下手だなあ。
このチビチビお湯を注ぐのが出来ない。」
「俺は焦らすイメージで楽しんでるよ。」
「卓って、わりとエロい?」
「何がだよ!」
美月はお皿にレタスを敷きハムエッグをのせた。
トースターがチン!と軽やかに鳴る。

「ありがとう。」
美月は最近の渉からこの言葉をよく聞くように
なったなと思う。
今までの渉は何をしてやっても
何も言わなかった。
「珈琲お待ち!」
「卓、サンキュ。」
「うわー良い薫り。」
三人でテーブルに座る。
「卓は将来カフェとかやれば?」
美月は本当に美味しそうに珈琲を飲む。
「そうだなあ。でもやっぱり雇われる方が
気楽だよ。珈琲は完全に趣味。」
玄関で亮の帰宅した気配がした。
「お帰りだよ。一家の大黒柱が。」
美月は嬉しそうに立ち上がり、リビングを出た。
「ほんとに、あの人たち仲いいな。」
卓は半分あきれて笑う。
「結婚して22年も経つくせにな。」
渉も穏やかだ。
卓はやっぱり渉の中で何かが変わったのだと
思う。それだけ今の彼女との仲が安定している
のかなと考えていた。
最近の変化と言えばこれに尽きる。
確かにあれから渉は変わったのだ。


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「渉。父さん帰ったよ。」
渉は頷くと卓に言った。
「卓にも聞いて貰いたいんだ。お前には
何にも話してやってないもんな。」
「何の話?」
「聞いてりゃわかるよ。」
亮が部屋着に着替えてリビングに入ってきた。

家族四人、テーブルに差し向かい座る。
四人全員が揃う機会はそんなにない。
美月は亮にビールと冷奴を出して
自分も隣に落ち着いた。
「話って?」
亮は決して楽しそうに笑ってはいない。
「俺が美瑛と別れた話は聞いてる?」
渉にしては丁寧な話し方だ。
話をはしょらずに一から説明する気らしい。
「ん。卓と美月から。聞いたよ。」
「美瑛には悪いことしたけど。
他に好きな女が出来て。だいぶ年上なんだけど
俺がきちんと就職きめたら結婚したいと
思ってるんだ。」
渉は澄んだ瞳で父の目を真っ直ぐに見詰めている。
亮は少し照れ臭くなってビールを飲み干した。
空になったグラスをいつまでも眺めているわけ
にもいかず、顔を上げてまた渉を見た。
「で、俺はまだ大学三年だしもう少し先の話
のつもりだったんだけど。」
さすがにそこで渉も目線を外した。
卓の淹れてくれた珈琲で口を湿らせた。
「彼女が、妊娠したんだ。」
「えええっ?!」
叫んだのは卓だけだった。
美月も亮も顔色ひとつ動かさない。
「彼女は一人で産むとか言ってるけど
そうはいかないだろ。産むのも育てるのも
並大抵のことじゃない。かといって俺が
どれ程のことができるかって、たかが知れてる
けどさ。学生で脛かじりの分際で言えたもん
じゃないけど、結婚したいと思ってる。」

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卓はまだ驚きすぎて目をキョロキョロさせて
渉と亮、美月の顔を代わる代わる見ている。
「なるべく父さん母さんに迷惑かからないように
するけど、実際はいろいろ助けて貰うと思う。
お金だって借りるかもしれない。
でも俺はバイトもするし、大学やめて働く」
「大学はやめるな。」
亮が渉を遮って口を開いた。
「自分がどれ程の不始末をやらかしたか。
その自覚はあるのか。」
あくまで冷静に話す亮。
隣では美月が寄り添って亮のひじにちょこんと
触れている。
「わかってます。申し訳ありません!」
渉はテーブルに額を打ち付けそうな勢いで
頭を下げた。
「その彼女のためなら、何だって出来るってか。」
亮のグラスに美月がまたビールを注ぐと
亮は一気にそのビールを飲み干した。
「浅海との結婚、許してください!」
「本当に彼女もお前で良いって言ってるのか?」
「えっ?」
渉が思ってもいなかった冗談に、どう答えて
良いかわからず目をパチクリさせる。

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「渉。なんか、お前変わったな。」
「父さん。」
「あっという間に逆ギレして、場をひっくり
返して駆け落ちでもするかと思って冷や冷や
してたんだ。」
「いくらなんでもそんなことしないよ。
俺ひとりのことならともかく。」
「今度彼女も連れてこいよ。美月はよく
知ってるみたいだしな。」
そこで卓はまた驚いた。
「なんだよ母さん!渉の彼女知ってんのか?」
全部話を聞くと卓は逆に真顔に戻っていた。
驚くのにも疲れたみたいだった。

天使が舞い降りた3

妊娠2ヶ月だ。
エコーの写真を見ると、ちょろんとまるっこい
ものが写っていて、我が子ながらイモムシの
ようでかわいいなあと思う。

渉は何て言うだろう。
彼はまだ大学生だ。
すぐに結婚するわけにもいかない。


と、いうより。
浅海は自分自身がすぐに結婚できないことに
今更ながら思い当たった。
前夫と婚姻を解消したのが3ヶ月前。
女である自分は、半年間再婚することが
できないのだ。
あと、3ヶ月。
生まれる前には入籍出来るが
本当に渉が自分との子を喜んでくれて
自分と結婚してくれるかはわからない。
浅海はそれでもいいと開き直る。

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これはあたしの赤ちゃんだもの。
あたしが産んであたしが育てる。
で、あなたのパパは訳あって一緒にいる
ことはできないけど、とってもやさしくて
素敵な人なんだよって教えるの。
それでも、いいよね。


美月が車で迎えに来てくれるので
ずいぶんと体も楽になった。
浅海は相変わらず食欲がなくて
車の中ではシートに体を埋めるように
くったりとして過ごしている。
美月は運転が上手かった。乗っていて
体に負担がかからないのが有り難かった。
ショートカットの名にふさわしい近道は、
さすが地元民という感じの
よくわからない斜めに走った細い路地だった。
こんな道があったのかと感心させられる。

「渉が心配してるんだ。」
美月は前を向いたまま、バックミラーで
ちらりと浅海を伺った。
「倒れたこととか、話したらさ。最近体調が
良くなかったから心配だったって。」
浅海は大丈夫と押し切ろうとした。
「微熱が、続いてるって?」
渉から聞いたのだろう。浅海は頷く。
「失礼なこと訊くようだけど。村雨さん
生理ちゃんと来てる?」
美月の口調が強めにシフトしたように思えた。
なぜか、浅海は美月に妊娠を咎められ
産むことに反対されるのではないかと
恐怖に怯えた。
「いやです!あたし、一人でも産みます!!」




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車内の空気が止まった。
ほんの1分か2分のことだろう。
浅海には意識が遠のくほどに長く感じた。
もう車は本校の駐車場への路地を入っていた。
美月は相変わらずの安全運転で
滑るように車を入れた。
バックで駐車するハンドル捌きも
惚れぼれするくらい格好良かった。
さきに沈黙を破ったのは美月である。
「おまたせ。」
「あ。ありがとうございます。」
美月は先に降りてドアをあけてやる。
浅海の手を取った。
「渉には言ったの?」
「え。」
「あいつ、まだ知らないんでしょ。」
「はい。まだ。」
「じゃ、聞かなかったことにするから。
まず始めにあいつに教えてやって。」
多分あたしが先に聞いたなんて知ったら
渉は拗ねるからさ。美月は笑った。
「嬉しいよ。あたしもお祖母ちゃんなんだね。」
「そうですよ。可愛い孫産みますから!」
「よろしくね!」
浅海は我慢しきれずにグズグズに泣き出した。


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「渉。今夜来られる?」
メールを打つとすぐに返信が届いた。
「バイトあるから9時頃になるけど。夜は
ずっと一緒にいられるよ。」
「うれしい。待ってるから。」
浅海はやっぱり、渉がなんていうか
心配だった。
だけど渉との子どもがお腹にいるのは
素直に嬉しいことだった。

渉が浅海の部屋に来たのは9時を10分ほど
回った頃だった。
「晩御飯は?」
「もう腹ペコペコだよ。」
「あれこれお買い物出来なくて。オムライス
でいいかな。」
「ありがと。」
ケチャップでハートでも書こうかと思ったが
やめておいた。
サラダとスープを添える。
浅海は男がご飯を食べるところにときめく
タイプなのだと自分を分析している。
口いっぱいにご飯をほうばる姿を見ていると
切ないほどに気持ちが高まる。
渉が中学生の頃、ケーキで釣って手なずけた。
美味しそうに自分の焼いたケーキを平らげる
渉に惚れ惚れしたものだ。
渉はオムライスを食べ終えると
器を流しに下げて洗い物まで全て片付けてくれた。
「浅海。いつもありがとな。
オムライス旨かったよ。」
キスすると渉の唇はケチャップの味がした。
「口の回り、ケチャップついてるわ。」
浅海が舐めとるようにキスすると
どんどん激しくなってくる。
「あん。もう、降参。」
浅海が感じはじめて離れると、渉が寂しそうに
浅海を抱き締めた。
「だめ?具合悪いか?」
「あのね。渉?あたし。」
やはり躊躇われる。どんな顔するだろう。
「あ、あたし。妊娠したの。」
「え。」

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渉はたまげた顔をしている。
驚いたとかじゃなく、たまげた。
「渉とあたしのあかちゃんよ。」
「俺が、親父?」
「渉はまだ大学生だから、無理に籍を入れて
ほしいとは言わないし、あたしと結婚する気
なんかないならそれでもいいの。」
「は?何いってんだよ!俺はどのみち
就職きめたらお前にプロポーズするつもりで
いたんだからな!嬉しいに決まってんだろ!」
「渉ぅ。本当に?」
「俺の子ども、産んでくれ。ずっと一緒に
いて欲しいんだ。」
「こんな、年上のおばちゃんなのに。」
「愛してるよ。お前じゃなきゃ駄目なんだ。」
浅海は渉の胸に顔を埋めて泣いた。
嬉しいのに号泣してしまう浅海。
俺が一生守ってやらないと。
渉は決意を新たにした。


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天使が舞い降りた2

思った以上に体調が悪い。
浅海は依然として食欲が落ちていて
胸焼けが酷くなった。
渉には心配かけたくなかったのだが
毎晩のように訪ねてきてくれる。
つい甘える。
一緒にいるとすこし食欲がわくのだ。
食事の支度をする気も出る。

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台所で二人で料理をする。
渉は、家ではちっとも美月の手伝いなど
しないと笑う。
浅海と一緒に居たいからだ。
そう笑う。
浅海は具合の悪さも忘れる。
渉を想う。
甘くて苦しくて痛いくらいに、好きだ。

「明日から、本校に出張なんだ。」
「あ、あの午後から行くってやつ?忙しい
じゃん。昼食う時間あんのか?」
「ん。どうせ食欲ないから、カロリーメイト
何かかじれれば平気だわ。」
「頑張りすぎるなよ。」
「ありがとう。渉。」



浅海は四時間目が終わって慌てて準備を
始めた。分刻みのスケジュールだ。
「村雨先生、交通費はあとで事務室に伝票
出しといてくださいね。」
「はい、わかりました。行ってきます。
直帰しますので宜しく!」
バタバタと私鉄の駅まで走る。
電車で三つ先の駅からまた本校まで徒歩10分
都合30分ほどかかるのだ。
昼休みは45分。着替えてグラウンドに出て
いくら急いでも予鈴には間に合わないだろう。
やっぱり実家からでも車を借りようか
浅海は頭を抱えた。

「村雨さん!」
職員玄関で靴を履き替えていると美月に声を
かけられた。浅海は複雑な気持ちをなるべく
圧し殺すようにして笑顔をみせる。
「美月先生!ご無沙汰してます!」
「今、来たの?で、五時間目?」
「ええ。四時間目まできっちり授業が
入ってるんですよね。」
「お昼食べてないんじゃないの?」
「電車の中でカロリーメイトを一本」
「大丈夫なの?」
「最近食欲ないから、ちょうどいいんです。」
浅海は更衣室に急いだ。
あと10分で予鈴が鳴る。





六時間目までを終えた後、
報告書を書いて主任に提出した。
これで今日の仕事は終了である。
思った以上にキツかった。
更衣室に向かって廊下を歩いていると
急に吐き気がして立ち止まる。
胸焼けは続いていたがこんなに
気持ち悪くなることはなかった。
前屈みに座り込んでしまった。
冷たい廊下の床にどんどん体温を奪われる
感じで震えがくるのだが、動けない。


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「?どうかしましたか?」
聞き覚えのある声が上から降ってきた。
「し、賞平、くん。」
「浅海!どうしたお前!しっかりしろよ。」
賞平は浅海を抱き上げて保健室へと急いだ。

「中学の瀬田先生のヘルプを第二から呼ぶ
ってのは聞いてたけど。お前だったんだ。」
「ありがと。助かったわ。」
養護の野田先生が賞平の肩を叩く。
「ちょっと話聞くから。坂元先生は外して
くれないかな。」
「はい、わかりました。」
野田先生は賞平が出ていくのを確認すると
口を開いた。

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「村雨先生。生理、来てます?」
「最近プライベートで色々あって。だいぶ
遅れ気味なんです。」
「微熱が続いてるんですよね。」
「!まさか。」
「妊娠しているんじゃないかなあ。最後の生理
いつでした?」
「先月の、頭くらいでした。」
「周期の乱れる前は何日くらいで来てました?」
「28から30日で。」
「もう、判定薬で出ると思いますよ。掛かり付け
産婦人科があれば受診されてもいいかと。」
「あ、ありがとうございます。」
「お大事に。もうすこし横になって行きます?」
「いえ。帰って判定薬やってみます。
もし本当に妊娠ならお医者様にも行かないと。」
浅海はゆっくりとベッドから立ち上がる。

保健室を出たところで美月と会う。
「村雨さん!倒れたって?やっぱり無理
してたんじゃないの?」
「ちょっと今日は初日だったし。坂元先生にも
迷惑かけちゃったけど。もう大丈夫です。」
「あのさ。余計なお節介かもしれないけど。」
「なんですか?」
「あたし車で第二まで迎えに行ってあげるよ。
片道10分で行けるけど?」
「え?15分掛かりませんか?」
「ショートカット出来るよ。」
「でも、美月先生のお昼休みが」
「あたし、五時間目空いてる日多いんだ。
体育は着替えたり移動の時間もあるだろ。
遠慮しないで甘えてよ。」

ありがたく甘えることにした。
これで本当に妊娠なら、美月先生と決まった
時間に会えるのも心強い。
それにしても。あれだけ雅也とセックスに
溺れるほどの生活をしていた新婚時代にも
まったく妊娠する気配もなかったのに。
一応避妊はしていた渉とのセックスで
妊娠しているものだろうか。
期待しすぎるとがっかりするので
あまり考えないようにしながら
ドラッグストアで判定薬を買い求める。
部屋に帰ってきて包みを開けた。
何しろこんなものを手に取ることからして
生まれてはじめてなのだ。
浅海は幾分緊張しながらお手洗いへと急ぐ。







陽性だった。




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渉との赤ちゃんだ。
自分はとっくに高齢出産なのでリスクは高い。
だが、絶対に無事に産んで見せる。
浅海は静かに燃える決意を固めていた。

天使が舞い降りた

浅海が離婚してから3ヶ月が過ぎようとしていた。

季節が移り変わり、朝晩めっきり冷えるように
なってきた。
そのせいだろうか。体が怠く熱っぽい。
浅海は体温計とにらめっこをしている。
37.3℃
風邪薬を飲むか最後まで悩んだが
紅茶に生姜のスライスを浮かべて
トーストといっしょにすすった。

「風邪?」
夜に渉が訪ねてきた。
メールで微熱の件を書いたら
反応が早かった。

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「一人で寝てるからだろ。あっためてやるよ。」
「んもう。感染しちゃうから、やめよ。」
「大丈夫だよ。」
抱き締められると彼の体は熱かった。
細身ながら筋肉の薄くついたバネのある
心地よい体である。浅海はうっとりした。
「イイ男に育ったね。すてきよ。」
「もう、子どもじゃないよ。」
「じゃあ、今夜は抱いててくれる?」
「嫌だっていわれたって離さないよ。」

抱き合ったまま眠りに落ちた。
二人でいる布団の中はあたたかくて
一人寝が寂しい訳に妙に説得力をおぼえた。
相変わらず若くて熱い渉の体に擦り寄って
再び深い眠りに落ちた。

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こんな夜を過ごした後、渉は浅海の部屋から
直接大学に行ったりする。
二人で一緒に玄関から出ると
隣のOLさんとはちあわせになったりする。
「あら。弟さんですか?」
どう返事をしたものかと浅海を伺う。
浅海は楽しそうに笑うと
「彼氏です。若いでしょ?」
冗談にしか思えない口調で本当のことを言った。

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お隣さんも笑うと冗談に乗ったかのように
「あら、羨ましいわ。」
中途半端に話を合わせてくれた。
間に挟まれた渉は薄ら笑いを浮かべて
なすすべもなく立ち尽くしていた。


「体、大丈夫なの?」
渉が相変わらず微熱の引かない浅海を気遣う。
「ん。寒気もしないし、風邪じゃないみたい。
少し疲れが出ただけだと思うわ。」
大通りまで出ると渉は駅に向かう。
浅海は学校に行くためにバスに乗るのだ。
「じゃあな。」
渉は浅海の頬に素早くキスすると
手を振って歩き出す。

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バス停で可愛らしく照れた笑みをうかべて
手を振る浅海。
こんな風にずっと、ずっと一緒にいたい。

学校に着くと校長に呼ばれた。
来週から本校の方に臨時で授業をしに行くように
とのことだ。
本校の教員が怪我で入院したらしい。
かなりの変則勤務だった。
隣街とはいえ、歩いていける距離ではない。
午前中しか授業の入っていない月曜から水曜に
午後から本校の授業をフォローするという。
中学生はまだ体育の授業が多い。
かなり調整したらしいが、どうしても
所々に穴が出た。
離婚したとき、車を手放したのが痛かった。
車なら本校までは15分程だ。

その頃本校では、附属の体育の教員が
週三日ヘルプにくると連絡が回っていた。
「午後から入られるそうです。男子、二年の
A~D、三年のC、Dの体育の授業を担当
していただくことになります。 」
美月は二年A組の担任であり、学年の主任だ。
手に軽い障害を抱えた生徒がいるため
挨拶しておかなければと、昼休みに電話を
かけることにした。
「山本先生。その附属の体育の先生、
なんて先生ですか?沖田のこと話しておきたい
から電話してみますよ。」
「えっとね。確か。村雨先生です。女性の
先生ね。」
美月は急に心臓がドキドキしてきてしまった。
「美月先生?」
「あ、はい。村雨先生ですね。わかりました。」

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いやあ。参ったなあ。
思ったより早く、長男の新しい彼女に
会うことになってしまった美月だった。

「はい、お電話代わりました。村雨です。」
昼休みに事務室に呼び出された浅海。
なんだか食欲もわかなくて保健室で横に
なろうかと思っていたときだった。
「あ、村雨さん?お久し振り、長内です。」
「み、美月先生?こんにちは。」
「こっちに週三で来てくれるんだって?
うちのクラスの男子も担当に入ってるんだ
よろしくね!」
「ええ。まかせといてください。」
「で、一人左手に障害のある子がいてね。
申し送りは体育科の山本先生に纏めておいて
もらうけど、色々制限あるからお願いします。」
「わかりました。逐一確認しますね。」
「お昼食べてる最中だったかな。ごめんね。」
「いえ、大丈夫です。」

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美月は迷ったが一言付け加えた。
「渉のことも。よろしくね。」
「あっ、は、はいっ!」
浅海は多少驚いたようだったが悪くない返事が
帰ってきて、美月は安心して電話を切った。

なるようにしかならない

夜、美月は亮と二人
久し振りにお酒を飲んでいる。

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「この日本酒見たことないけど美味いね。
さすが正直さんのお土産にはハズレなし。」
正直さんは美月の父だ。無類の酒好き。
呑むために引退せずに働き続けている。
「出張に行くと初めて行く土地でも
必ず美味い酒見つけてくるんだよね。」
烏賊刺しをつつきながら日本酒が進む。
「亮は飲みすぎちゃ駄目だよ。」
「わかってるよ。でも四合瓶二人でだぞ。
酔いようがないだろ。」
亮だって四合瓶一本くらいは一人で空ける。
いつも酒のことに関しては子ども扱いされて
しまうので、亮はほっぺたを膨らませる。

「それにしても意外だったな。渉。」
亮は自分の息子のことなんだけど
まるで有名人が電撃離婚!なんてニュースに
驚いたような感覚で話をする。
「あ、聞いた?」
「卓からね。もちろん本人からじゃない。」
「そりゃあの顔見れば驚くよね。」
忍に殴られた顔の腫れはかなり引いたものの
輪郭がいつもと違うのは一目瞭然だったから。
「俺が渉に問い質そうとしたら卓が、すっと
間に入ってさ。父さん、ちょっと…って。」
卓は亮の腕を引いてキッチンの端に誘導した。耳元で小声で説明してくれた。
そんないきさつで殴られたならば
まあ、仕方がない。亮もそう思った。
「あいつ。美瑛以外の女に惚れるとは。」
「小さい頃からずっと一緒で、あんな魅力的な
娘にすごい惚れられて。いわば苦労知らずの
恋愛しかしたことないじゃない?」
「あはは。確かにそうだ。あいつに他の女の子
一から口説くような面倒なこと出来ないと
思ったんだけどな。やるときはやるんだな。」
「どうなんだろうね。もしかして、逆に
他の女に口説き落とされちゃったのかも。」
「へえ。そんな歯応えのある女の子に
見込まれちゃあな。」
「とんでもなく年上だから。もし連れてくる
ようなことがあれば腰抜かさないようにね。」
「え?卓はそんなこと言ってなかったよ?」
「多分、言ってないと思うよ。卓は知らない。」
じゃあなんで美月は知ってるの?と
亮は不思議そうにする。
もう、反抗期から何年もの間
渉は自分達夫婦に腹を割って話をして
くれることはないのだ。
「そうだね。あたしにはすぐバレると
思ったからか。それとも結婚まで考えてるか。」
「バレる?」
「なんか、色々口を出したくなるけど
男と女の話だもんね。黙ってなきゃ。」
「美月は知ってるんだ?相手の女の子を。」
「女の子、じゃないな。彼女もう38だし。」
「え?」
「昔、美瑛の妊娠騒ぎ、あったでしょ。」
「あの時はお前が倒れたりして最後まで
大変だったよな。」
「あの時、附属中の先生が保健室のカウンセリング
に入っててね。渉と話してくれたんだけど。
それがその彼女な訳。」
「へーぇ。それにしてもなあ。」
「それに、あたしの初めての教え子なんだよね。」
「えっ?」
亮は驚かされっぱなしである。









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渉は殴られて歪んだ顔を自撮りした写メを
浅海に送った。
でも、これでケリがついたんだ。と。
浅海からはすぐに返信が来た。
こんなんじゃキスしても痛むわね。
やさしく慰めてあげたいけど触れないわ。
渉は浅海の体を思い出して、少し興奮した。






「でもさ。渉は結婚するつもりなのかな。」
亮はごきけんになっている。
ぐいのみと空になった四合瓶を片付けて戻った
美月にキスしてくる。
「亮、酒臭い。」
「お前もだろうが。」


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「なるようにしかならない。」
美月は独り言のように呟いた。
「やつの人生だしな。」
亮も独り言のように答えた。
「どうせ俺たちは先に死ぬんだからな。」
美月は亮に擦り寄って肩に顎をのせる。
「幸せだよ。あたしにはずっと亮が側に
いてくれた。」
「これからも、ずっとさ。」
別れるなんて、お互い考えたことがない。
それはこんなにも幸せなことなのだ。